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日々発見新聞 家説


日々の生活から浮かび上がってくる
「何の根拠もない仮説」や「無責任な提言」のページ

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□ 彼女についての質問メモ (2003.11.9)


「糸川君て彼女いるの?」
「糸川って彼女いたっけ?」
「糸川さんて彼女さんはいるんですか?」

などなど、やたら「彼女の有無」を尋ねられた週末でした。

半年振りに会う人が多かったのは事実ですが、それにしても会う人逢う人から尋ねられました。
2日間で6回くらいだったでしょうか。週末以前にも、ここ最近で同じ質問を2回くらい受けたし。

おもしろいことに、皆さんは気持ちいいくらいに遠慮なくお尋ねになります。
だからと言って嫌な思いをするわけではなく、もちろん嬉しいわけでもなくて、ただただ不思議です。
こんな風に、「彼女についての質問」を集中的に正面から受けたのは初めての経験なのです。

そして、やっぱりこの背景がよくわかりません。
そんなに「いなさそう」に見えるのでしょうか? それとも「いそう」に見えるのでしょうか?
あるいは、そういう話題が挨拶に使われる、いわゆる「年頃」になったということでしょうか?

どうやらすぐに答えは出そうにありません。
とりあえず、検討を今後に続けるためのメモから。




□ 躾(しつけ) (2003.5.10)


躾は、躾てくれた人がいなくなってからようやく身につくものではないでしょうか?

たとえば某N先生の、「飲んだ後の空き缶は洗ってから捨てるように」という言葉。
当時ははっきり言って面倒臭くてまず洗っていませんでした。
それがどうでしょう、最近では自分の部屋で飲んだコーヒーの空き缶をわざわざ洗ってから捨てる自分がいるのです。

躾はまるで遺言のように、その人がいなくなってもじわじわと効力を持ち続けています。

たとえば先日、「糸川さんがかつて私のマナーについて注意してくれたことを今でも意識して守っている」という話を聞きました。
自分自身では見事に忘れていましたことですが、こうやって自分の言葉が生き続けているというのは嬉しい一方で責任重大です。

躾(と言うと少々偉そうで言葉に棘があるからアドバイスの方がいいかも)には、
自分がいなくなって注意・アドバイスができなくなった時のために、自分の代わりに言葉を残すというものかも知れません。
だからこそ、長期的な視野と自分の分身になるという責任を持たないといけませんね。




□ セルフスクープ (2003.3.30)


どうも「セルフスクープ」に足元をすくわれる今日この頃です。
3月24日の発見記事がそれで、時々この手のネタを記事としてとり上げますが、うーん、どうなんでしょうか・・・

いろいろと反響を頂くわけですが、どうもこれにしっかりとお答え(応え)できない場面にしばしば直面します。
「ずばり誰!?」や、「ま、まさか○△さん!?」などと尋ねられても、
もともと誰かを特定し公表するのが目的でなく、「そういう心境になった」ことに焦点を当てていることから、どうしてもノーコメントを通すわけです。

しかしこの様子が、ただただ自分でネタ振りをして興味を惹くだけ惹いておしまいという、
「ちょっと私のことを注目してよ!」という風に振舞っているように自分自身で見えるわけです。

決してこれを狙っているわけではないけど、結果としては事実である以上、少しこの手のネタを考え直さないといけないかもしれません。
あるいは、もう少し上手に「セルフスクープ」をできるようになりたいものです。

(ちなみに「セルフスクープ」というのは造語です)




□ 物欲のない人への贈り物 (2003.3.4)


贈り物をしようとする時、相手が物欲のない人だと非常に頭を使うことになります。

お金で何かを買ってそれを贈れば喜んでくれる人なら、喜んでくれそうなもの、たとえばその人が「買いたい物」を考えればいいけど、
「買いたい物」がない人の場合には、何を買って贈ってもいまひとつ喜んでもらえそうになく、
そこで「贈り物は買うもの」という図式を変えなくてはいけません。

その代表的な作戦として「手作り」や「手紙」、あるいは「花束」が考えられるわけですが、
しかし本当にそれらが物欲のない人に喜んでもらえる贈り物になりうるか、というとやや不安になってきます。
「喜び」が一過性のものでいいなら「花束」なんかで間に合いそうですが、やっぱり喜びは少しでも長く持続してもらいたいもの。

「贈り物のしやすさ」はその人を評価する一つの基準にもなるなぁ、と感じつつ、
さて、結局のところはどんな贈り物がいいのでしょうか?




□ お金に対する良質な価値観 (2003.2.28)


財布の中に千円札が一枚しかない数日を経て、ようやく銀行の口座から現金を引き下ろしました。
心が安らいだひと時です。

お金がないと心が荒むというのも納得できます。
でもたくさんのお金によって心が貧しくなるというのも納得できます。

この矛盾に思いをめぐらせていくと、お金の存在自体の問題性を感じるわけですが、
そうするとだんだん主義思想の世界に入っていって手におえなくなります。
ですのでそこまで深入りするのは避けるとして、
目下の結論としては、お金に対する良質な価値観を持つことが重要だと思うわけです。

お金に対する良質な価値観。
それはどんなのだろう? と考えることだけでもいい線いくのかもしれません。




□ 天災から人災へ 〜死へのアプローチ〜 (2003.2.22)


地下鉄での事件や事故は、2ヵ月後には「我が身」です。
きっと営団にも都営にも乗ります。サリンが撒かれた駅のすぐ近くを毎日通ることになります。
ラッシュで心が「病む」ことは覚悟していましたが、こうも度重なる地下鉄問題を見ていると、「地下鉄で死ぬかも・・・」という思いも日増しに強くなってきます。

もっとも、浜松でも「東海地震」や「東南海地震」に怯えながらの生活を送ってきました。
地震が来て圧死するかもしれない。いや、その後の火事による焼死、もしくは窒息死かもしれない・・・、という思いは心の奥底にありました。

しかしネイティブ静岡人がよく口にするように、「地震が来たら来たで仕方がない」という半ば諦めに近い気持ちになっているのも事実です。
格好良く言えば、「地震という天災で死ぬなら仕方ない」と、自然に対する人間の無力さを自覚しているわけです。
さらに、「来る、来る」と言われつつも数十年が経っているのも事実で、人災の地下鉄事故よりも大地震発生確率の方がよっぽど低いのです。


この先20年という期間を設定した場合、
果たして浜松で地震に遭って死ぬ確率と、東京で地下鉄事故で死ぬ確率はどちらが高いのでしょうか?
いや、むしろ原因は特定せず、単純に「浜松と東京で死ぬ確率はどっちが高い?」という疑問を抱きます。

浜松では、地震に遭ったり、自動車の運転中に事故にあったり、自衛隊機が落ちてきたり・・・
東京では、列車事故に遭ったり、テロ被害にあったり、心が病んで自殺したり・・・

・・・、やっぱり東京の方が高そうな気がする・・・




□ エレベーター内のにおいに注鼻 (2003.2.20)


エレベーターに乗るといろんなにおいがします。多くの場合は、「匂い」ではなく「臭い」です。
止まっていて誰も乗っていないエレベーターの中に残っている臭いです。
今日は「生乾きの服の臭い」がしました。結構、臭かったです。

香水や整髪剤の臭いはもとより、体臭や煙草の臭いも意外と残っています。
時にはコーヒーのいい匂いがする場合もありますが、においの良し悪しにかかわらず、
誰のものか全くわからないにおいを嗅ぐというのは、なんとも妙な気分で、どちらかと言えば気持ちよくはありません。

しかし、エレベーターに乗る以上はこれらのにおいを嗅がざるを得ないわけで、
どうせならそのにおいに注目ならぬ注鼻して、「エレベーターのにおい日記」などをつけてみるのはどうでしょうか?








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